世界遺産 平泉

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―
登録年2011年

〇概要
 8から12世紀には、「死後に仏国土(浄土)に行くことで成仏できる」という浄土思想が普及していた。平泉は浄土を現世に体現することを目的に、奥州藤原氏3代により生み出された。
 この遺産は、軍事ではなく文化交流に力を注ぐ奥州藤原氏による平和政治の中で、発展したことを物語っている。

〇歴史
 11世紀末、藤原清衡は中央政権との間で金などを取引することで得た財力をもとに、平泉に新たな政治拠点としての都市の建設に着手した。
 1105年、清衡は中尊寺を造営。2代目の基衡は毛越寺を再興。基衡の死後、その妻により、観自在王院が建立。3代秀衡は阿弥陀如来の極楽浄土を体現する無量光院を造営。
 その後、源頼朝の侵攻を受け奥州藤原氏は滅亡するが、室町時代になると、参詣の霊場としての信仰を集めるようになり、江戸時代には、俳人松尾芭蕉がこの地に訪れた。

〇構成資産
中尊寺
中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉町にある天台宗東北大本山である。国宝の金色堂重要文化財の経蔵などを含み、境内は国の特別史跡に指定されている。
中尊寺は、12世紀の藤原清衡による伽藍造営時に再興。清衡は、敵味方を区別せずに戦没者の魂を浄土へ導くことと、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指し伽藍を建立した。

金色堂
金色堂(こんじきどう)は国宝に指定されている阿弥陀堂である。藤原清衡によって建立された。高さ8m、平面の一辺が約5.5m で、堂内外の全面に金箔を張り、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされている。須弥壇上には阿弥陀如来を中心に多くの仏像を安置し、須弥壇内部には清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体や泰衡の首級が納められている。
当時の建造物群があらかた焼失した中尊寺にあって、創建当初の姿を伝える貴重な建造物であり、2006年に行われた巻柱の年輪年代学による年代鑑定の結果からもそれは裏付けられた。

毛越寺
遣水。平安時代には曲水の宴が行われていた。
毛越寺(もうつうじ)は平泉町の寺院である。1226年の火災で多くの伽藍が失われ、1573年に完全に焼失した[。そのため、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園は特別名勝に、境内は特別史跡に指定されている。開山は円仁と伝えられるが、再興したのは藤原基衡で、当時としては最大級の規模を誇る寺院であった。
現在残る浄土式庭園は平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている。

観自在王院
観自在王院跡(かんじざいおういんあと)は、平泉町に残る遺跡で、名勝に指定されている。
観自在王院藤原基衡の妻によって建立された寺院だが、1573年に焼失した。昭和時代の二度にわたる発掘調査(1954年 - 1956年、1972年 - 1977年)と、修復事業(1973年 - 1978年)によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元された。毛越寺とは南北道路を隔てて隣接しているが、その毛越寺の庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。背後にある金鶏山と一体となった景観によって阿弥陀如来の極楽浄土を体現。

無量光院跡
無量光院跡(むりょうこういんあと)は特別史跡に指定されている巨大な阿弥陀堂跡で、世である。
藤原秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建立した。建立に当たっては、当初から西方極楽浄土が強く意識され、庭園、阿弥陀堂、背後の金鶏山が東西方向に並ぶように配置されている。

金鶏山
金鶏山(きんけいざん)は、平泉町にある標高 98.6 m の山である。2005年に史跡に指定された。
金鶏山奥州藤原氏の都市計画において基準点をなしたと推測されており、山頂の真南には毛越寺境内や幹線道路と直行する道路の端が存在している。また、彼岸の時期に無量光院の堂宇を庭園の中島から眺めると、堂宇の背景で金鶏山の山頂と日没が重なるように見ることができたとされ、単なる基準点にとどまらず、西方極楽浄土を想起させる空間設計上も重要な位置を占めた。